ヨハネによる福音書 15章1~11節
高松教会 村上貴志
私たちは、みんな、神さまの被造物であります。
さて、その出来栄えは、どうだったでしょうか?
詩編80編9・10節では、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。」そう歌われます。
エレミヤ書2章21節では、「甘いぶどうを実らせる 確かな種として植えた」と、とても、良いものとして創っていただいたのです。
しかし、その出来栄えは、イザヤ書5章にあるように、「実ったのは酸っぱいぶどう」でした。
アダムとエバが、神さまから離れる罪を犯したからでしょうか?
預言者の時代は、そうだったのかも知れません。
しかし、イエス・キリストにより、罪より贖われた私たちは、「罪赦された者」。でも、自身が「酸いぶどう」であることは、認識しております。
人の弱さを、十分に知っておられたイエスさまは、「互いに愛し・仕え、自らを僕にする事」を、教えて下さりました。
そして、イエスさまに繋がる事によってこそ、隣り人と歩む事の出来る「ぶどうの実で有る」というのです。
そして、「ぶどう」この果実には、特別な期待が備わっています。
イザヤ書には、「その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り」とありました。ぶどうは、神さまの造り給うた最も良い口にするものに、変わるのです。
良き実り・賜物であっても、神さまの業によらなければ大きな喜びへとは、変わりません。
主に繋がることによって、神さまの・イエスさまの愛に留まり続ける事によって、より一層、大きな祝福へと変えられると言う事です。
主の愛に留まる歩みを続けるのならば、主と共に歩みを続けるのならば、私たちの内より、「知らず知らずのうちに犯してしまう罪」も、現れては来ない事でしょう。