ヨハネ書 13章12~20節
高松教会 村上貴志
足を洗う事。
「仕える者としてかがむ事」は難しくは有りません。
膝が汚れることも、気になりません。
しかし、足元の前にかがみ込む事。
その人は、…。私にとって、今の今まで受け入れていなかった人。敵対していた人でした。
人が相手を攻撃するのに最も力を持つ場所は、足であります。
あの足先が、蹴り上げられたら。あの膝が、私のしゃがんだ姿に、その後頭部に、振り下ろされたなら、…。
その足は。私の足と同じく、清くないのです。
新たな疑いを抱きます。だから、できないのです。
信じる事の出来ないツマラナイ生活が、始まるのです。
それに対し、「これで、良いの?」開いた聖書の御言葉が問いかけてきます。
頭に浮かんだ讃美の歌詞が、問いかけてきます。
「ツマラナイ私の意地よりも、素敵な共に歩む生活に戻ろうよ」と。
この声、最期のチャンスかもしれません。これに従わないと、「心を閉ざしたまま」となるしかないのです。
しかし、このチャンスを捉える事。いかに難しいかを、人は知っています。
私一人では、出来ないですから。相手の気持ちも、知っています。
私に敵対する人です。私から歩み寄っても、…。私だけなら。
やはり、ツマラナイ生活のままなのです。
主の共同体。教会の歩みに加えられながらも、一人の思いではどうにもならない。相手が、有る事だから、…。
だから、イエスさまが模範を示して下さいました。
イエスさまの姿を目の当たりにした時。
人は、変えられるのです。
キリストが、共にいて働いて下さる者に。
でも、一人だけでは、ツマラナイのです。
「共に」は、キリストと「私」だけでは有りません。
「私」と「あの人」も。「私だけ」では無いので、「互いに」と、主は教えられます。
「共に・互いに」受け入れ合う事こそ、御言葉を豊かにし、讃美が体中に響き渡るステキな生活へと変えるのです。