ヨハネ書 13章1~11節
高松教会 村上貴志
イエスさまは、先生で有りながら、弟子たち一人一人の足を洗われました。
ペトロは、皆を代表して、イエスさまに尋ねました。
「どうして、先生が弟子たちの足を洗うのでしょうか?それは、私たちの仕事ではないでしょうか?それとも『仕える者』としての実践を、今、教えて下さっているのですか?『先の者が後になる』あの語られた事を、教えて下さっているのですか?」
ペトロの頭には、様々な思いが浮かんだ事でしょう。
しかし、ペトロは、全うな思いに帰ります。
「私の罪深さ・汚れに、神の御子である清い先生が触れる事は良くない事だ。清い物が、汚れた物に触れる時、清い物もが汚れた物となってしまう。」
それで、ペトロは、固辞します。
「その様な事が、有ってはいけない」ペトロは、自分の姿と行いを良く知っていたのかも知れません。
それは、イエスさまと共にいて、彼自身が気づいたことです。
共にいても、何の理解もできていない。
ペトロには自信が無かったのです。
自らを省みた時、「主と共におれること。主が自分のような者を、憐れんで下さる事が有るのだろうか?何か、私にして下さる。そうな、栄誉な事が有るのだろうか?有るはずがない。有っては、いけない。自分は、相応しく無い者なのだから。」
彼は、主に足を洗っていただくことを辞退しようとします。
わずかな報酬さえいただくに相応しくないと思っているのです。
ただ、一緒にいただけだから。それは、関わりを持ったともいえないような状況だったのです。
イエスさまは、「受けないのならば、関わりのないことになる」と、語られました。
ペトロは、イエスさまが、「関わっておられた」と言われた言葉に、驚くのです。
「主が、いつも私と共にいて下さった事・思いも一つであった。」と、教えられたからです。
主は、「既に体を洗った」と、語られました。