ヨハネによる福音書 12章20~26節
高松教会 村上貴志
律法によると、ユダヤ人と異邦人との交際は、禁じられておりました。
ですから、イエスさまに会いに来たギリシャ人たちは、イエスさまの元に辿りつくのが困難でした。
ですが、彼らは、会いたかったのです。聞きたかったのです。
それまでの考え方とは異なる恵みと祝福と平安の満ちあふれる喜びが、主の元にあることを確信していたからです。
求める思いが有るのならば、そこに道は、開かれます。
彼らは、フィリポを見つけます。
それは、偶然・たまたまでは、無かったと思います。
求める人を、神さまが、最も相応しい人へと導いて下さったのです。
フィリポは、優秀とは言えない弟子でした。
しかし、「求める人を、主の元に導く」そう行動した弟子でした。
このギリシャ人たちが、初めてイエスさまの元に来た時、最もふさわしい・最も良い隣り人が、与えられたのです。
その事については、「皆さんが、初めて行った教会で、最初に親しくして下さった方を思い出して下さい。」と、問われれば、その答えが思い出されると思います。
世界中の教会で証しされる出来事です。
他者との関係。
様々な思い・感情・自分(命)・栄光を捨て去り、隣り人のために歩みを進める事は、それを保って永遠の命に至るのです。
しかし、自分の命(思い)を愛する者は、それを失う。
イエスさまは、「わたしに仕えようとする者は、私に従え」と、言われます。
「お目にかかりたいのです」と思う人と共に歩むための歩みを、教えていただいたのです。
「私も、お目にかかりたいのです」と、願ったあの時。
相応しくない私を、主の元に導いて下さった方がおられた事。
私たちの周りにいる、主を求める人「お目にかかりたいのです」と、心の中て思っている人を、今度は、私が、主の元に招きたいと思うのです。