ヨハネよる福音書 8章31~38節
高松教会 村上貴志
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」
イエスさまは、御自身を信じたユダヤ人たちに言われています。留まらない人たち。
しかし、良く読むと「信じた」とも、記されています。
一度は、信じているのです。でも、離れたのだから、「信じたのではなく、知っただけではないのか?」そのようにも思ってしまいます。
どういうことなのでしょう?
信じたのに、離れる事が有るのでしょうか?
神殿からの追放。地域共同体からの追放。神殿からの追放は、その様な過酷な状況なのです。
人々は、その事を恐れました。
神さまからは離れたくない。教会へは行けない。
その答えが、「アブラハムの子孫です。」という言葉です。
イエスさまは、「私たちを罪より解き放たれる。自由とする」と、語られますが、
「本来、私たちユダヤ人は、自由なのです。約束と信仰。私たちは、何ものにも捕えられていないのです。だから、イエスさまの元に、教会に行く必要はない。」そう心の中を合理化したのです。
言い訳をしたわけです。主に対して。
そして、自分の行動に対して。
「しょうがないのだ」せっかくイエスさまの弟子にしていただいたのに、…。
申し訳ないけれども、体制を整えるまで、状況が変わるまで、…。
言い訳だけをしておきます。教会から、離れた人たちの言い分でした。弟子にしてもらったのに、…。
「人が、自ら願って弟子にしてもらったのだから、願って離れた。」ということなのでしょうか?
歴史は、その繰り返し。導きに至る事は、無かったのです。
人に、手立ては、無かったのです。だからこそ、神さまは、その御子であるイエスさまを、地上に送られた。
人に代わって、その罪をぬぐうために十字架に架かられたのです。
イスラエルの歴史が証明したことは、「イエスさま以外に神さまに至る救いの業は、無い」ということでした。