アドベント第二週
詩 編 14編 1~7節
高松教会 村上貴志
今日の聖書箇所は、詩編14編です。
詩編53編とほとんど同じ詩です。
「ノアの洪水以前のような状況」周りの人が皆「神などいない」と語る、神さまを知ろうとしない時代の信仰者の思いです。
「皆」と言っても、「全ての人」ではなく、社会を担う者・地位や権力のある者のことです。
本来、地位や財産・権力と言われる物は、神さまからの祝福の賜物です。
それを、持つ人は、「神さまを知り神さまに感謝する人」のはずです。
しかし、この詩編で歌われている時代は、力ある者が神さまを否定する。
「それは、私の実力であり、私の能力であり、賜物・カリスマであり、努力だ!」と、「私」を強調する発言であります。
この体は、「神さまが作って下さった器で有りながらも、その中身は、『私』だ。」と、言うのです。
そして、そのような思いは、限られた人たちだけではなく、広がっていたのです。
捕囚期には、「神さまは、イスラエルを守って下さらなかった。(もちろん、それは、イスラエルの不信仰から祝福が失われたことより起こった出来事なのですが)囚われた家族や親せき・友人・隣り人は、遠い所に連れていかれ、会う事もできない。帰ってくる見込みもない。いえ、帰ってくることは無いだろう。神などいない。」
自分たちの不信仰を棚に上げて、神さまに対する不平を心の中で呟いていました。
人々は、囚われていた。体だけというわけではなく、心も。
詩編の作者は、その事に対して、「神さまの民」としての、解放を求めて祈るのです。
全てから自由となるような「私」の解放ではなく、「神さまの民」としての、解放を。
神さまと共にいる事によって、「私」から、「罪」から解放していただき、自由となる。
その自由は、なんでもという自由では無く、「神さまと共に過ごす平安」と解き放たれた祝福なのです。