ヨハネによる福音書 4章16~26節
高松教会 村上貴志
サマリアの女性と会われたイエスさま。神さまの造り給うた全ての民のために働かれておりました。
エルサレム以外での礼拝。異国の風習と同化した礼拝。
イエスさまは、その事について、神さまへの執り成しが不完全である事を指し示し、「この水を飲む物はだれでも渇く」と、語られました。
サマリヤでも、モーセの書物を大切にして礼拝を守っておりました。
しかし、そこには、唯一であるユダヤの神さまだけがおられるのではなかった。
モーセ五書を奉じながらも、他の神々をも拝む姿があった。
イエスさまは、その事を明らかにされます。ですが、しょうがなかったのです。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」尊敬の言葉では、有りません。彼女は、イエスさまの言葉に抵抗します。
「あなたは、ユダヤの偉大な先生かも知れません。しかし、わたしたちの状況を理解されていない。
受け止められては、おられません。致し方なかったのです。他に方法は、無かったのです。精一杯しているのです。
どうすれば良かったのでしょうか?どうしろとおっしゃるのでしょうか?」そう、見つめるのです。
主は、全てを御存知でした。
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理とをもって礼拝する時が来る。」
『まことの礼拝』とは、人が神さまの御姿を知ると言う事です。
全ての民を愛して下さった神さまが、御子イエス・キリストを通して応答して下さった事を『知る』と言う事なのです。「知っているつもりだけれど、…。良く判らないのだけれども、…。お願いします。」から、
「私の目の前にその姿を現され、御業を示され、祝して下さる救い主イエス・キリストの御名によって、
神さまへと繋がる祈りを捧げる礼拝」が、与えられたのです。主イエス・キリストの御業によって。
御子の十字架と復活によって、罪が贖われ、永遠の命へと導かれたのです。