ヨハネによる福音書 2章1~12節
高松教会 村上貴志
「ガリラヤのカナで婚礼」が、有りました。「婚礼」とは、もちろん、祝いの席・祝福された場所でした。
ところが、その途中で、「ぶどう酒」が、足りなくなってしまいました。「ぶどう酒」は、ユダヤでは、「喜びの酒、これがなければ、祝うことも喜ぶことも出来ない」と、言われるような物でした。無くてはならない物でした。それが、足りなくなった。
まだまだ祝宴は、続くはずなのに、それは、「終焉」を意味する出来事でした。招かれた祝福は、終焉を迎えたのです。後に記されている「ユダヤ人の清めのために用いられる水瓶が、六つ」(七つ「完全」に一つ足らない)不完全な物で有った事によって、それが、象徴されていたかのように思えます。人々は、十二分に準備をしていると思っていたのに足らなくなった。この祝いの席は、完成を迎える事無く、解散となってしまうのです。
そこに、イエスさまが、おられました。しかし、まだ、何のしるしも現されていない。この時、「神さまの時」は、「救い主としての業」は、始まっていなかったのです。「時が満ちていなくても、…。」満ちるのは、いつのことかわかりません。しかし、母マリアは、「この人の言う通りに」と、待ち続ける姿勢をとったのです。信頼し続けたのです。
その姿を教えられると、自らの姿を恥じてしまいます。「神さま、イエスさま、お願いいたします。」そう祈った直後から、…。「いつでしょうか?早く教えて下さい。いつかではなく、今、現して下さい。」そう願ってしまう待ちきれない自分。挙句の果てに、「もういいです。」離れる歩みへと進んでしまいます。
マタイによる福音書21章にあるように、新しい民に委ねられたという神さまの国。このような私を、相応しい者として歩む事ができるように、イエスさまは、最初のしるしを現されたのです