ガラテヤの信徒への手紙 3章1~14節
高松教会 村上貴志 牧師
パウロは、6つの問いかけをいたします。
どうしてそのような問いかけをしたのかと言うと、「教会が出来た時、一人一人の信徒の方々が神さまに導かれたときの思い」と、異なる状況になっていたからです。更に、状態が変わっているにも関わらず、それに気づいている人がいなかったからです。信仰生活の落とし穴に落ち込んでいた、ガラテヤの信徒たちに自らが気づくように問いかけたのです。
そして、パウロは、六つの旧約聖書の言葉を引用します。それは、アブラハムの信仰にたちかえるものでもあります。信仰によって生きる人たちは、アブラハムのように、旧約聖書に記されている信仰に基づかないといけないのです。神さまの御旨を仰ぎ見る事が出来ない時にも。神さまの御旨が大きすぎて目に入りきらないような時でも。私の心が曇っている時でも。私を惑わす者が、傍らにいたとしても。見失ってしまっている。見えなくなってしまっている。それでも、神さまのお言葉を信用して信じる。
アブラハムが、その神さまの愛の先例となったので、私たちは、それに与る事が出来るのです。信じて良いのでしょうか?
良いのです。
神さまは、アブラハムを通して、「全ての国民が祝福される」ことを、約束されたのですから。
この約束を信じる。その事が、一番なのです。私の努力。律法を守り切れる人は一人もいません。
律法は、私たちに求められるもの。信仰は、…。求められず、与えられるもの。
どちらに、神さまの愛の教えがあるのでしょうか?
私たちは、どのような時にも、神さまの御言葉を信じる者として歩みを進めたいと思うのです。
神さまの約束を信じ続ける者となりたいと思うのです。