高松教会 村 上 貴 志 使徒言行録28章17~31節 ローマの法律においては、何の罪も見いだされないのに、裁判を受けにローマまで来たパウロ。本人は、「エルサレムにいた時から、今まで(新共同訳では訳出されていません)囚人として、ローマ人に引き渡されていました。」と語ります。 「今まで」この言葉を足すと、「これからは、ローマの囚人では無い」ということになります。束縛が解かれ、「これからは、『主の僕』としての働きを為す」と、言いたかったのです。 パウロは、神殿から命を狙われ、低くされて気が付きました。イエスさまに出会って、目がふさがれ。 一人では歩む事も出来なくなって、気づきました。 助けてくれたのは、「今までの仲間」では無く、「自分が行ってきた暴力・暴言・不法に晒されてきた」人たち。「神殿から離れた者」として迫害してきたキリスト者たち。キリストの愛の中に入れられた人たち。キリストの愛に生きる人たち。キリストの愛を互いに実践する人たち。「目が見えなくなる」身体にしるしが与えられ、自分が低い存在として扱われて、初めて分かった思いでした。大変と思われる状況が、神さまからの招きでありました。 パウロは26-27節で、イザヤ書6:9-10を引用して語ります。(訳は、70人訳聖書)神さまの言葉は、時に人を頑なにします。そこに地上の滅び、約束の地からの追放の未来が有ります。経験しての悔い改め。 そうならないように「お会いして話し合いたかった」と、語ったのです。頑なに信じない人。何度お伝えしても、変わらない人。沢山います。その人たちには、イザヤが語ったように荒廃と捕囚という審判を経て。いえ、すでに、イエス・キリストという「清められ、救いへと至る道」が有るのです。わざわざの試練を通ることなく、招かれている事に気づいてもらえるよう、福音を伝えていくのです。
2020
01Nov